2019年02月28日

重症だ(><)!

『ウチのかみさんがうつっちゃったみたいでしてねぇ(刑事コロンボ風に)』
『一つだけいいですか?』
『溶連菌ってのは抗生剤を飲んでから1日もすると他の人にはうつらなくなるんですよ』
『早く飲むのが大事ですね、貴方、ちゃんとのみました?』

『あぁ、あともう1つだけ』
『溶連菌は最後まできちんと抗生剤を飲まないと、腎臓に菌が回ってとんでもないことになるそうですよ。怖いですねぇ…』

『最後にもう1つだけ!』
『風邪なんか引いたときもですがね、“コーラでうがい”すると非常に良いんですよ。何ならそのまま“飲んじゃっても”良い
『かみさんにそうさせました(笑)』

『え?いつから感染していると気付いていたか?
『検査キットで陽性が出ていたからですよ。』

『あぁ、良かったら(しょうたろうタクシーで)送りましょうか?え?結構?それは残念です』


最後に、最後に1つだけいいですか?
一時のブームになった古畑任三郎
あれはコッテコテの刑事コロンボのオマージュなので
好きだった方はぜひ、刑事コロンボも観て(読んで)みてくださいね(⌒‐⌒)


…犯人はもう分かりましたね?
(犯人は、いない)

私もペニシリンを飲んで、寝ます

2019年02月25日

無の本質を考えると

恐怖は無知から生まれる
無を知れば、無への恐怖も和らぐのかもしれない。

逆に、自ら死を望む状況について考えてみた。
例えば今、耐え難い苦痛があって自ら死を選んでしまうヒトはいる
死恐怖とは逆に、マイナスがゼロ(無)に向かうことに救いを見いだしてしまうのかもしれない。

次は、無から無になること(無のまま、無でありつづけること)を考えてみる。
“差”がゼロなので何も喪うものがない。
だからそもそも恐れることも…無い?

なるほど
もしかしたら、歳老いて、喪うものが少なくなるにつれて
タナトフォビアは軽くなるのかもしれない。

本当にそうか?
愛する家族が皆いなくなり、自分を知るものが誰一人としていなくなれば
それは本当に無になってしまう。
逆だ

子が産まれ、孫ができ、脈々と“自分の一部”が継がれていくことを実感することで、
自分自身が霧散してしまう以上に遺るものを実感することで、
タナトフォビアを克服出来るのではないかと思う。
生物学的なDNAのみならず、
あるいは思想や社訓として残ったり
誰かに親切にして産まれた“ありがとう”の気持ちがまた別の誰かに伝播したり
そんなもんだってかまわない。
いつにいつを振り返ったとしてもきちんと誰かに何かを遺せていれば
“個としては無”になっても“イデオロギーは無にならない”と。

そう思うと、、うーむ、
まだ何も遺せていない(笑)
今すぐに死ぬのは非常にマズイ(汗)

また今日から忙しくなるな
posted by うたまろ at 04:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 活動日誌

3日に1日くらいの頻度で襲撃を受ける

あらゆる生き物には“死”がある
生命活動は停止し、脳の電気信号も途絶える
自我は霧散し、あとは“無”となる

もちろん自分自身も例外ではなく
あとは“それがいつなのか”というだけの違い
何十年も先の寿命かもしれないし、
今日、事故で終わるかもしれない

そんな、いつかも分からない“終わり”を恐れること
これをタナトフォビアという。


ある一定以上の思考レベルに達すると
いわゆる『死後の世界』なるものはヒトの儚い願望が生んだ妄想だと気づいてしまう。

個人的にはそれは“知らなくて良かったこと”の一つだと思う

死後、ヴァルハラやら神の庭に召されたり
あるいはまだ別の生き物などに輪廻する方がまだ救いはある

不幸にも『死後には何も無いと分かってしまった者』にはもれなく“無”がついてくる。


“信じる神”がある者は幸福だ。