2019年12月31日

心理学における無作法と、絶対譲るマンのこと

とある実験にて
『誰かの“無礼な振る舞い”は電気信号の様に瞬く間に伝播・拡散する』
事が明らかにされた。

それは例えば、朝の出勤時から始まる。
車での通勤中、誰かに無茶な割り込みをされれば…誰しも少なからずイラッとくるだろう。
そこで相手にやりかえす怒り(ムカッ)…は論外として、
自分もまた、知らず知らずの内に運転が普段より荒くなり、あるいは職場に着いてからもいつもとは違う無礼な振る舞いをしてしまう…
そうして発生した二次的な無礼さが、三次、四次と拡大していったらしい。

そしてもう一つ。
これは『単なる不快さのリレー』ではないこと。
ことの発端となった【割り込み車】は、
“それでスカッとして終わり”ではなく、その後も次々と割り込みを続け、無礼や不快を振り撒いた。
そして、その無礼を受け取った人々もまた、複数の相手に二次的な無礼さを振り撒いてしまった…

そう、『無礼を受けて無礼を振り撒いたところで不快さは消えない』というところに問題の本質はあった。
単に無礼さの譲り渡すだけなら、いつかどこかの『紳士』が寛容に受け止める事が出来たかもしれない。

しかし一人から二人に、二人から四人、八人と拡大していく無礼さを止める手だては無い。
我々日本にも【八つ当たり】という言葉があるが…つまり、そういうことだ。


車通勤に限らず、電車通勤だって同じだ。
駅階段の上がり下りの指示を無視してかけ降りて行く自分優先の輩、
座り方や音漏れ等、乗車マナーを弁えない輩等々、電車にまつわる無作法も挙げればきりがない。
誰しも、一度は体験しているはずだ…

これらについて“自分は無縁”と言い切れるヒトは極僅かだろう。
社会に属する限り、あるいは集団との関わりを絶った世捨て人でもない限りは、全員が【ストレスの発生源】であり【ストレスの増幅装置】になりえるのだ。


一方、個人的に興味があったのは【我々が無礼さに腹立てる理由】

上に挙げた無礼さの例を良く見てみれば、
運転や乗車のマナーやルール違反の中には、“必ずしも私たち自身に害を為すものではないもの”が少なからず含まれていることに気づく。

例えば、身障者専用駐車スペースに明らかな健常者が駐車していたとして、本来それを利用することはない私には何らデメリットはない。
しかし、明らかに沸き起こる不快さや嫌悪感は本物だ。
これはどこからやってきたものだ?


そう、これは【我々の本能に刻まれたプログラム】だった。

元来、ヒトは社会を作る生き物だ。
社会が安定するにはルールが不可欠となる。
そのためか、ヒトには【他者の不法行為等】を目の当たりにした時、それを不快に思うと同時に『懲らしめてやらなければ』という心理が働く事が知られている。

今や流行りの『煽り運転』についても、“事の発端は被害者側に一因がある”とも考えられている。

もちろん、それで自分自身が規範を脅かす無法者になるのは本末転倒だ。
そうならないよう、我々の大脳には自分達のルールを守ろうとする機能が備わっている。
(認知症でここが狂えば、万引きや露出に走ってしまうことになる)

この『ルールを守ろうとすること』と『ルールを破る輩への怒り』は一対のもの、トレードオフとなっているようだ。
農耕民族の名残か、日本人は特に“勧善懲悪”を望む傾向が強いとも言われている。
(水戸黄門、暴れん坊将軍に遠山の金さんが証明してくれる)

だから車社会という、これ以上ない集団的な生活の場に無作法への怒りが渦巻いていることにも納得がいく。

しかし、だからといってその渦に本能的飲まれていくことは好ましいか?
少なくとも私自身には美しい生き方には見えない…

ではどうするか?
文化に、種の本能に、抗えるのか?

…恐らくそれはムリだ
自分自身が全く他者に不快を与えずに生きていくことなんて出来ないし、
あるいは溢れかえる“無礼さ”の全てをさらりと受け流せる寛大さを、今すぐに身に付ける事は難しいわからん


ならば
“逆”はどうだろうか?


“無礼な振る舞い”が伝播するならば
“紳士的な振る舞い”もまた伝播させられるはず…

そうした思いからたどり着いた、私なりの答えの一つが

【絶対譲るマン】だ車

狭い道のすれ違いでは必ず『お先にどうぞ』
急ぐ後続車に気付けば『お先にどうぞ』

車での移動の場合、なりふり構わず急いでも、ゆとりを持って向かっても、到着時刻に差は出ないと統計は言っている。

下品なオラオラ運転で得られるものは何もない。
不快を広め、あるいは自分自身を貶めるだけ。

しかしルールを遵守し、さらにゆとりを持つことができれば
『どうぞ』
が生まれる。
そして『どうぞ』からは『どうも』が生まれ、
『ありがとう』が拡がっていく…

それが“無礼さ”を上回れば、“不快感”を塗り替えられたら良い。
感謝の連鎖の起点になるになることは、もうそれだけで既に豊かだ。
ムリなく自然に、いつまでも続ける事が出来る。




…ただ、そんな『絶対譲るマン』にも天敵は存在する。それは


対向車の『絶対譲るマン』だ!!


絶対譲るマンどうしが隘路、もしくは何らかの障害物を挟んでしまったとき、
お互いのポリシーをかけた闘いが始まってしまう。
すなわち互いに“譲ることを譲らない”という、奇妙な膠着状態だ…(中にはパッシングをしてまで『譲られなさい』と表明してくる強者も、、譲るとは一体?)


もしも“後続車”がいれば、
『いる方が諦めて譲られることができる』
が、問題は互いに一台ずつしかいない際の攻防だ。


こんなときには【ルール】が重要となる。

まず障害物
障害物があれば、無い方の車線側が諦めやすい(笑)

次に勾配(登り優先ルール)
勾配があれば、登り側が諦めやすい(笑)

あるいは崖
崖があれば、崖側が諦めやすい(笑)

…と、こんなことを『絶対譲るマン』たちは考えている(はず)

いずれにしても最後には必ずどちらかが譲られる(折れる)ことになるが、
大体、此方も先方も苦笑いして互いの譲るマンを讃え合うのだ。

posted by うたまろ at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ふとした思い付き

2019年12月29日

甥っ子

昨日、めでたくも無事に甥っ子がお腹から出てきた
妻は『何か良い名前は思い付かない?』と無茶ぶりをするものだから

くまごろうくま
限界突破之助パンチ

…と、思い付きを挙げてみたところ、
かなり激しく怒られた(´- `;)
理不尽だ

子どもも悪乗りして

饂飩
布団ノ中之助

など、デタラメを言い出すものだから
やはり私が怒られた(><;)

…子どものお名前は、パパとママが悩みに悩んでつけるもの。
いっぱい悩んで、良い名前を授けてあげてくだされ
posted by うたまろ at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | モショっとつぶやく

2019年12月28日

訪問悔悟

今年も“色々あった”

・・・なんて言葉では集約できないくらいに“色々”あった。

社会情勢の変化や環境の変化、組織の変化もあった
それでもまだ今年は“制度の変化”がなかっただけでも落ち着きがあった方だと言えるか

小児科門前の薬局として振り返れば、反省点は多々ある
受付から交付までの流れの悪さ、時間のかかりよう、、等々
でもこの辺は今後の課題でもあるが、鍛錬と相互理解でいかようにも改善は可能だと思うし、
悲観的ではない

しかし、薬剤師としての“個”の能力、即ち【居宅介護】におけるこの一年を振り返ると
“ほとんど役に立ってねぇ、、”
との思いが強い。
介護だけに、悔悟とでも言おうか・・

もちろん案件によっては『しょうたろうの介入によって一定の効果が得られた』と仰っていただいたり、
コツコツと小さな実績を重ねられている実感がないこともない

一方で、“自分が何をすればいいのか”“何ができるのか”
そんなことすら自分でもわからない、ほとんど役に立ってない案件もあったりする


『誰も入ってきてほしくない』
そう閉ざされた家に、心に、どう向き合っていくか

「それでも入らねばならない」と食い込んでいくべきか
やることは限られようと「入って欲しくない意思」を尊重するべきか


どちらかハッキリできないうちに、どうやっていい仕事が出来ようか

この年末年始は、例年以上に【考えさせられる期間】になりそうだ
posted by うたまろ at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 活動日誌