『5人の命を守るために1人の命を奪うことができるか』
という問いについて考える「トロッコ問題」と呼ばれる有名な思考実験があるが、
今まさにウクライナにおいて同じ問題が出題されている
様々な論点が存在するだろうが、ここでは
『世界の平和のためにウクライナの人々には犠牲になってもらうことを是とするか、否か』
という問いについて考えてみる
まず「3日で首都陥落」とも言われていたウクライナだが
侵略者への隷属を良しとせずいう気概に西側諸国からの支援が相まってか、今なお抵抗は続いている
西側陣営が「ここでロシアの息の根を止める」と言わんばかりに支援物資を送り込んでいるのは、今回のウクライナはこれまでの朝鮮半島やベトナム、アフガニスタンやシリアなどと異なり
“直接ロシアの喉元に刃が届く”特別な戦場であるためで間違いないだろう
一方のロシアも侵攻により日ごとに2兆円を垂れ流しているというから、手ぶらで帰れないことはもちろん、もはや軍事目標と民間人を区別するゆとりなどないものとして考えるべきだろう
ウクライナもよく耐えているとはいえ、本土防衛ともなれば国土は蹂躙され、女・子供を含む非戦闘員の死傷者も増える一方だ
情報筋によれば金融制裁も相まって6月頃にはロシア崩壊の見通しとのことだが
仮にそうだとしてもまだ3か月以上もこの泥沼が続けばウクライナも破滅的なことになっていることは間違いない
そういった背景のもとに“貴方はウクライナについていかに考えるか?”ということが世界中に問われている
先に個人的なの考えを申せば
西側陣営が間接支援続けることでウクライナの国土を犠牲にしてでもロシアを壊滅させようとすることを支持するとなる
ウクライナの方々には申し訳ないが、明日は我が身だ
もしもロシアがウクライナを制圧すれば、その前例によって今度は某国が台湾を、ひいては我が国に手出ししやすくなることは明らかなので、その懸念を振り払うには今ここで帝国主義者の息の根を止める必要がある
そして、今こそがその好機なのだ、、
『トロッコ問題』で言えば、間違いなく5人の中に自分たちも含まれている
『トロッコ問題』が思考実験として成り立つのは【自身とは無関係な5人と1人】について論じているからだ
自身と無関係な5人と1人についてだからこそ、“その命の重みの差”や“それらの命運に自身が関与する事の是非”について意見がやまない
しかし自分を含めてになればそうはならない
自分が5人の中に含まれていれば大半の人が迷わず1人を犠牲に出来るし、
なんならば自分が1人の方に含まれていれば5人を殺すことになろうともヒトはレバーを押せる
そのことを自覚しておくことが、今まさに犠牲になっているウクライナ人やわけもわからず戦地に送り込まれて死ぬロシアの若者に出来る唯一の事なのではないかと考えている
一方でこの問いに対する別の解として
『早く降伏しましょうよ!逃げても生きていればどうにかなります』
といった意見もあるようだが
これが見事に失笑を買っているのは言うまでもなく、自身に差し迫ったトロッコについて認識できていないとみなされるからだろう
あるいは近代的な文化様式に慣れ切ってしまった現代人にとって、ロシア政権のような前時代的な帝国主義は非常に異質なものとして映ることに気づけない共感性の少なさか、、
さて、まとまりが無くなってきたが一つ重要なこととしてわかったのは
生き残るためには常に5人の側になるように立ち回るべきということ
私たちが真に心配しているのはウクライナそのものではなく、ウクライナの“次”であろう自分たちだということは当のウクライナ人たちもよく分かっているだろう
そんなウクライナの生存戦略としては5人の代わりに犠牲になる1人ではなく、どうにかして5人の方に入ることにある(発端となるNATO入りを求めていたこともこれに当たる)
もっと大きな視点で言えば私を『私たち』に置き換える事だ
そうなると今度はウクライナを含む世界が5人に入り、今度はロシアが1人になる
そして今、現実に世界はその様になろうとしている
非常に強かである
今後、必要な場面では参考にしようと思う